こんにちは、てんてんです。
先日、アカデミー賞受賞式で 司会者がウィルスミスの妻の坊主(脱毛症のため髪の毛を伸ばしていない)をいじってジョークを言いましたね。
それに対して怒ったウィルスミスが ステージに上がっていって司会者に一発!ビンタを食らわせました。

「愛する奥さんを守るステキな男性だ!」
「あんな暴力がまかり通るなんて、ありえない」
「ウィルスミスはアンガーマネジメントができていない」
などなどさまざまな意見がありましたね。
私はどう思ったか
私は「自分が妻だったら会場のみんなと一緒にヘラヘラ笑っちゃうな」
「そして家に帰ってから、司会者への憎悪と自己嫌悪でダメージ2倍くらうな」
「ウィルスミスの妻 あの場で悲しみを表現できるなんて、なんで強い人なんだろう」
と思いました。
私ならまず、消えて無くなりたいです。とりあえず
恥ずかしいとか悲しいをとりあえず通り越して、その場から砂のように散り散りになって消えてしまいたい。
そしてそれは無理なので、次になるべく短時間でその場をやり過ごすことを考えると思います。
結果、ヘラヘラ笑って周りとなるべく馴染もうとするのかなぁと。
今、コロナ対策でもよく言われる同調圧力ではないですが、自己主張を避けたやり方ですよね。弱っちぃな自分。
そして家に帰ってから、ムカつく〜‼️‼️ってなって
それをヘラヘラした自分にもさらにムカついて…
布団かぶってメソメソするかもしれないですね
そんな中、ウィルスミスの妻が 悲しみ(むしろ呆れている?)の表情を浮かべている事に、彼女の強さを感じました。
しかも怒り爆発というわけでもない。
なんて強くて美しいんだろう
きっと、私が想像するより多くの悲しみや怒りを経験してきたに違いないな。
もう一つの違和感
もう一つ感じた違和感は、アメリカでもあのレベルの笑いは、面白いんだなぁという感想
アメリカが 人種や外見などの要素についてどのくらいデリケートか、それを欧州の国々と区別して考えず『海外では』と捉えていた私がいけないのかもしれませんが
もう少し日本に比べてデリカシーのある成熟した社会なのだと思っていました。
なのであのような“イジリ”がアカデミー賞受賞式という場で発言された事自体に少なからず違和感を覚えました。
ちょっと、私はアメリカ(海外)美化しすぎていたのかもしれません。
私は今、治療中のため副作用で脱毛しています。だから治る前提で一時的なものとして脱毛を受け入れようとしています。
でもどうでしょう、もっと若かったり、原因が不明だったり、精神的なものだったり 治療が続きもう髪が思った通りに生えてこないかもしれないとなった時に自分が受け入れられるかどうか。
またそれを、彼女のように 坊主にして、公表して、強く生きていられるかどうか。
今脱毛している私でさえ、その気持ちを想像するのは難しい事です。
ましてや、脱毛するような状況に立たされた事のない人にとっては なかなか感覚として理解しにくいとは思います。それはあのジョークを言った司会者の人も含めてです。
乳がんになった今、人の心の痛みに寄り添う想像力が 少しでもついていたら良いなぁと
それくらい、病気した意味があっても、良いよね?と思った ニュースでした。
皆さんどう思いましたか?
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